那珂湊天満宮御祭禮を嗜む
通称 みなと八朔まつり
那珂湊天満宮の紹介
1 天満宮とは
天満宮とは、菅原道真公を御祭神とする神社です。菅原道真公(承和12 年(845 年)~延喜3年(903 年)は平安時代の貴族で、幼少時より学問に長け、第 59 代天皇である宇多天皇の信厚く、右大臣までになりますが、左大臣藤原時平の陰謀により九州大宰府に左遷され、当地で没しました。菅原道真公の死後、藤原時平の早世に始まり、京には天変地異が相次ぎ、これが菅原道真公の祟りだとされる中、決定的な清涼殿落雷事件が起こりました。これにより朝廷は菅原道真公の名誉を回復し、菅原道真公は日本古来の雷神と結び付けられました。そして、古来より火雷天神が祀られていた京都北野に北野天満宮を建立し、菅原道真公の祟りを鎮めようとしたということです。また、菅原道真公が没した地である九州大宰府では、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣が下向し、その墓所の上に社殿を建造しました。これが今の大宰府天満宮であり、北野天満宮と共に全国天満宮の総本社とされています。
なお、天満宮の名は、菅原道真公が自身の無実を天に訴えた際に届いた尊号である「天満大自在天神」によるものであり、これ以降天神様として祀られることになります。
2 神紋
菅原道真公は、幼少の時分より梅を好んでいました。5歳の頃には「梅の花 紅の色にも似たるかな 阿呼が頬にもつけたくぞある」(阿呼=道真公の幼名)と歌を詠み、大宰府への左遷が決定した折には「東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅花(うめのはな) 主なしとて 春な忘るな」と詠み、京の屋敷内にあった梅の木に別れを告げました。そして伝説では、この梅の木が道真公を追って大宰府まで飛び(飛梅伝説)、大宰府に降り立ったとされています。今でも太宰府天満宮の境内には樹齢 1000 年を超える梅の木「飛梅」が存在し、太宰府天満宮に植えられている梅の中で一番最初に花を付けるそうです。このことから、天満宮の神紋は梅の花が用いられているのです。
なお、飛梅伝説は他の地域でも存在しますが、太宰府天満宮の飛梅から後世に株分けされた梅の木が全国各地に存在するそうです。また、梅と共に飛び立った松は、途中で力尽き、神戸市須磨区にある「飛松岡」に根を下ろしたそうです(飛松伝説)。
3 那珂湊天満宮
今から遡ること 700 年以上前、鎌倉時代に、和田町に金兵衛という漁師がいました。ある夜、海岸にて岩の上に光るものを見つけると、これが観世音像でありましたが、梅鉢の紋があったので湊の鎮守様である橿原明神の御神託を受けると、天神様であるとされました。これを祀ったのが、那珂湊天満宮の始まりです。(御神体が最初にお腰掛になった海岸の岩であるとする岩が今でも那珂湊にあり、「旧お腰掛」として祭礼の御幸の途中で御神輿がお腰掛けになります。)詳細な創建年は不明ですが、岩手県宮古市の長根寺旧蔵に現存する、文和5年(1356 年)と記された「大般若経」の奥書に「執筆 常州吉田郡那珂湊天神別当坊住侶」の文字があります。ここには、「奉寄進 奥州閉伊郡於長根寺之常住」ともあり、当時(南北朝時代)すでに那珂湊天満宮は実在し、那珂湊は東北と交流していたことがわかります。
その後約 400 年が経過した今から 300 年以上前の元禄年間に、水戸藩第2代藩主であった徳川光圀公により、那珂湊天満宮は正式に湊の鎮守様とされ、橿原神宮と共に湊の二大鎮守として今に至ります。この時、光圀公により新たな御神体が造られ、神宝を添えた遷宮の式が行われ、現在の境内にある御中座の位置に社殿が新造されました。(この御中座は今でも神域とされ、祭礼により御神輿が御出社し、御神幸となる前に一旦奉安され、御祈祷が行われます。)
那珂湊天満宮は民衆の信仰が篤く、歴代藩主の尊崇を特に集めました。那珂湊は江戸時代頃に「水戸湊」と言われ、東北地方から江戸への東回り航路の要所でもあったことから、往時は水戸城下をも凌ぐ活況にあふれました。豪商や大網元が多数出現し、西の大阪・東の那珂湊とさえ言われるほどでした(昭和 22 年の大火によりその名残りはほぼ消滅してしまいました。)。当時は那珂湊天満宮の近くに「夤賓閣(いひんかく)」という水戸藩の迎賓館があったため(現在は湊公園)、藩内外の要人が多数訪れたことでしょう。その際、那珂湊天満宮前の馬場では全員頭を下げ、最敬礼にて通過したそうですが、乗り打ち(御神前を馬や籠に乗ったまま通過すること)を改めるため、享保年間に当時の水戸藩主により境内の参道が90 度曲げられ、新たに今の位置に社殿を新造したということです。
なお、拝殿は昭和 47 年に不審火により焼失し、その後建造されたものですが、本殿は幕末の紛争、空襲、那珂湊の大火をも免れ、現在も当時のまま(御神体は元禄年間のもの、本殿は享保年間のもの)存在しています。
4 御旅所
御旅所とは、祭礼において御神幸の目的地となる場所で、御祭神に由緒ある場所とされます。那珂湊天満宮の御旅所は、古来は「3 那珂湊天満宮」の冒頭で記した旧お腰掛とされる岩でした。海から現れた天神様が最初にお腰掛けになった岩とされるもので、その御神域は江戸時代の天保検地帳によれば五畝歩(150 坪)ありました。海岸でしたので岩は砂に埋もれてしまいますが、毎年祭礼に先立って年番町が砂の中から岩を掘り起こすのが通例でした。
しかし、この地は明治以後の万衛門川の延長工事により一部河川敷となり、那珂湊の大火の復興工事により道路敷きの中央になったりと移転を繰り返し、かつての面影を失ってしまったのです。そこで、昭和に入ってから御旅所は和田町三丁目の埋立地に移転しました。この場所は埋立前は「那珂湊の高磯」と呼ばれる名磯があった場所で、ここに古の御神域の敷地面積に等しい五畝歩(150 坪)を確保し、これを那珂湊天満宮の飛地境内と定めました。そして古来の御旅所は「旧お腰掛」の名に改められ、今でも祭礼において御神輿がお腰掛けになるのは、前述のとおりです。現在の御旅所を確保できた経緯は、一説としては、海岸埋立後の分譲において、当地が最後まで売れずに残ったためと聞きます。那珂湊の高磯は、それ自体が崇拝の対象であり、畏れ多いものであったため、当地に手を出す人がいなかったからではないかと考えられます。
5 場所
那珂湊天満宮 茨城県ひたちなか市湊中央1-2-1
御 中 座 那珂湊天満宮境内
御 旅 所 茨城県ひたちなか市和田町3丁目
旧 お 腰 掛 茨城県ひたちなか市和田町3丁目1−27
橿 原 神 宮 茨城県ひたちなか市富士ノ上2-1
6 例祭
那珂湊天満宮御祭禮は、水戸藩第2代藩主徳川光圀公(水戸黄門様)が、旧暦8月朔日(1日)を祭礼の期間と定めたことにより、原則として8月1日から4日間祭礼を行います。このことから「八朔祭り」ともいわれます。この期間の第2日目に、例祭が執り行われます。現在では、新暦の8月の第一木曜日からの4日間が祭礼期間とされていますが、これは忙しい現代人に合わせた例外的日程ともいえるでしょう。 (過去には旧暦で行われたこともあります。)
